エストニア・タリンと電子政府の歴史を簡単に分かりやすく解説|人間の鎖についても

エストニア共和国が建てられる歴史や戦争について、またIT大国となったエストニアの歴史を分かりやすく簡単に解説します。

石器時代~バイキング時代

石器時代(紀元前9000~4200)

今のエストニアの地域に人が住み始めたのは、紀元前9000年前の氷河期から約500年後だと考えられています。

中石器時代からは、約50の定住地と4つの埋葬地が水域近くで見つかっているそうです。

ヴォルガ川という名のヨーロッパ州最長の川の中流域で生活していた、フィン・ウゴル語派民族が、エストニア人の先祖であるようです。

狩猟や釣りをして生活を営んでいたようで、ビーバーやアザラシ狩猟をしていたそうです。

紀元前4200年にもなると、定住地は100、埋葬地も20以上あったそうです。

新石器時代には、エストニア人はラトビア、リトアニア、ロシアと交流を始めています。

青銅器時代(紀元前1800~500)

焼畑農業、狩猟、漁業で生活を営んでいたようです。

後期青銅器時代には、石造りのお墓が使われ始めたそうです。

この頃のエストニアの古代遺跡は、ほとんどが沿岸地域にあったようで、人々の生活は、主に、島であったそうです。

鉄器時代(紀元前500年~50年)

人々は大麦を主に作り、牛をメインに家畜としていたようです。

青銅器時代に比べて、人口が増加し、農場が拡大したことを除けば大きな変化はありませんが、この頃にはサーレマー島で新しいタイプのお墓が作られ始めたそうです。

この頃は、宝石の文化が部族で生まれていたようです。

バイキング時代(西暦800~1050年)

エストニアには、バルト海を船で航海し、時には略奪急襲を行ったというバイキング時代があります。

もともとは貿易目的であったとの見方もあります。

中世(1200~1558年)


この頃のエストニアは、街がどんどん成長し、カトリック主義でした。

ドイツに占領される

キリスト教を広めようと思ったキリスト教団が、バルト三国にも広めようと試みましたが、うまくいかなかったので、武力で改宗をする形でエストニアの占領が始まりました。

エストニアは、ロシアに力を借りて、キリスト教への改宗を目的とした武力に対して武力で対抗し続けましたが、アルベルトが率いる騎士団がデンマーク軍に支援を求め、その結果、エストニア本土が制圧されました。

その後、エストニアはドイツに支配され、「闇の時代を経験した」と言いつがれています。

タリンという名の元が生まれる

ドイツ人に制圧されたエストニアには、軍事施設が建てられ、「そこはデンマーク人の要塞=ダー二ーリーン」と呼ばれたそうです。

その「ダー二ーリーン」という呼び名が、今日の「タリン」という名になっているそうです。

ヨーロッパ社会の近代化

スウェーデンに支配される(1558-1710)

この頃のエストニアは、島の領土をデンマークに、南の領土をポーランド(リトアニア)に、北の領土をスウェーデンに占領されていました。

北欧7年戦争の結果、スウェーデンがデンマークに勝ち、エストニアの一部を支配することになったのです。

1600年には、ポーランドとスウェーデンの間で戦争が起こり、結果としてエストニアはスウェーデン人の手に落ちました。

しかし、スウェーデンはエストニアを非礼に支配することはなかったようで、この時代は、農民に優しい改革がなされたり、学術の分野が成長したこともあり、スウェーデンに支配された時代は良き時代としてエストニア人に残っているそうです。

ロシアに支配される

その後、スウェーデンの力を奪おうとしたロシアが、エストニアを破壊することで、エストニアを手に入れます。

エストニアのスウェーデン色を一掃する為に、ロシアはエストニア住んでいるドイツ貴族を優遇し、エストニア人を農奴として扱いました。

教育を受けた有能なエストニア人に仕事を与えなかったのです。

ロシア人以外が役所で働くことは困難でした。

しかし、農奴制が廃止された頃から、500年以上にわたるドイツ貴族の支配に不満を持っていたエストニア人は、コツコツとエストニア人の勢力を取り戻していきました。

この頃は、90%がエストニア人、4%がロシア人、3.5%がドイツ人でした。

第一次世界大戦

「イギリス・フランス・ロシア」対「ドイツ・オーストリア・ハンガリー・トルコ・ブルガリア・イタリア」という形で第一次世界大戦が始まりました。

エストニアは、ロシアの軍事物とされていました。

エストニアには軍事施設が設置され、エストニア人は戦争に徴兵されました。

第一次世界大戦は、キリスト教を広める目的で領土占領を繰り広げた人々の武力に、武力で対抗する戦争であったようです。

その為、第一次世界大戦は「戦争を終わらせる為の戦争」と呼ばれることもあります。

エストニア共和国の独立(1917年)

1917年にロシアでロシア革命が起こると、翌年にはエストニア人はエストニア共和国として独立をしました。

ロシアに再び占領される

独立をしたエストニアでしたが、独立宣言後、1918年にドイツ軍がエストニアを去ると、ロシアはエストニアを侵略し始めます。

ロシアは武力で攻撃を開始し、エストニアはこれに対抗する形となりましたが、これは「エストニアの独立戦争」と呼ばれています。

エストニアはイギリスやフィンランドから援助を受けて、何度か抵抗に成功したものの、1918年、ロシアはエストニアの半分を征服していました。

エストニアは周辺国のフィンランドからポーランドまでの助けを経て、ロシアの侵略に対抗する軍事計画を立てましたが、失敗に終わりました。

その後、エストニアは経済や生活水準などの全体的な落ち込みを経験します。

第二次世界大戦

1940年、ドイツがデンマークとノルウェーを侵略し始めたことで、ロシアはエストニアを封鎖しました。

そして、ロシアはエストニアにロシア軍に参戦することを求めます。

ロシアは最終通告をエストニアに渡し、エストニアはこれを受け入れる形でロシアに占領されました。

ロシア軍への参戦を運よく免れたエストニア人は、ドイツ軍に参戦しました。

エストニアからロシア軍を追い出すことに成功したエストニア人は、ドイツ軍の指揮の元、軍事部隊を解散させました。

冷戦

第二次世界大戦直後から1980年代後半まで続いた冷戦の間は、エストニアはロシア側に含まれていました。

エストニアはロシアの軍事基地となり、エストニア人はロシア軍へ徴兵されていました。

ロシアに占領されていたエストニア人には、エストニア国家を再建することはほぼ不可能でした。

しかし、ロシアへ強制的に取り込まれることを逃れて、西に亡命していたエストニア人が残っていたのです。

エストニア国家再建は難しいと思われたものの、ロシアと対立する西側の国に亡命していたエストニア人は、エストニアを再建する中心となりました。

再び独立するエストニア

ロシアの衰退

ロシアはこれまでの非効率的な社会主義計画や、軍事産業の優先により、危機的状況に陥りました。

また、ロシアのエストニア地域における亜リン酸塩鉱山計画が公表されると、エストニア人の生徒がデモ活動を行いました。

これらのデモ活動は、小さなもので、結果として成功することはありませんでしたが、これらがエストニアが再び独立するきっかけであったと言うことができるでしょう。

エストニア人は、ロシア側に、独立後の1939年協定の秘密の議定書の公表や、いわゆる人権の要求をし始めました。

歌う革命

1988年にもなると、エストニア社会は政治的に活動的になっていきました。

そして、ロシアに占領されることで鎮圧されてきたエストニアの国民文化に焦点を当てたアート的な組合が形成されたのです。

その1つに、歌う革命というものがあります。

歌う革命とは、歌うことでエストニアを取り戻そうとする運動でした。

今もエストニアで行われている国家イベントである「歌と踊りの祭典」は、この歌う革命から始まっています。

そして、エストニアとして最初の国民独立党という政党が設立されました。

こうして、エストニアはロシアに占領されている状況下で、エストニア国家を再建する運動を起こしていったのです。

エストニアの国旗が作られたのもこの頃だそうです。

ロシアはエストニアの独立を認めないことを宣言していましたが、「エストニアの目覚め」を止めることができませんでした。

その時の有名なデモ活動は、「エストニアの人間の鎖」と呼ばれています。

エストニアの人間の鎖(1989年)

エストニアの歴史の中でも印象的なのは、「人間の鎖」や「バルトの道」と呼ばれることがある独立運動の一環として行われたデモ活動です。

このデモ活動は、エストニアだけに限ったことではありませんが、エストニアとラトビアとリトアニアのバルト三国のおよそ200万人によって行われました。

このデモ活動が起こったのは今からほんの30年ほど前のことですが、エストニア国家の独立を世界に再認識させる興味深い運動となりました。

1989年に「独ソ不可侵条約秘密議定書」の締結50周年を期する為、つまり、「エストニア(バルト三国)は独立しています!ドイツやロシア(当時ソ連)はバルト三国を占領してはいけないはずですよ」ということを表明する目的でこのデモは行われたのです。

およそ200万人の人々が手をつなぎ、切れることがないように計画して「人間の鎖」を作ったそうです。

ウィキペディア様より引用

当時のロシアのゴルバチョフ大統領は、エストニア共和国の復活を認めませんでしたが、1991年に行われたソ連の連保維持の投票のボイコットを受け、エストニアはその後独立を回復することになります。

エストニアとロシアの不仲

2007年に、エストニアはエストニアにあった第二次世界大戦記念の「旧ソビエト軍兵士像」を撤去することにしましたが、これを良く思わなかったロシア系住民が、エストニア警官隊と衝突したことがきっかけで、今もロシアとエストニアの関係はあまりよくないようです。

エストニアの電子政府の歴史

ドイツやロシアなどに再三占領されてきたエストニアですが、独立をしたものの、他国にまた占領される危機があったり、人口減少という問題を抱えています。

ですが、なんとしてもエストニア共和国という国家を守り育てたいエストニア。

IT国家となることで、エストニア共和国を力強くしていくことに成功しているようです。

エストニア国家CEOは、「インターネット上で繋がっていれば、エストニア領土が占領されることがまたあったとしても、エストニア国家が占領されることはない」と言います。

IT大国の始まり

エストニアのIT大国の始まりは、1991年に独立を回復した時です。

当時の状況は、今のIT大国とはかけ離れており、人口の半分以下が電話回線を使い、コードレスの電話はフィンランドの携帯電話だけだったそうです。

エストニアのIT大国の先駆けとなったのは、Skypeの開発でした。

IT投票が世界で初めて行われる

その後、2007年には選挙の投票が世界で初めてオンライン上で行われました。

それを達成したのがエストニアでした。

それと共に、エストニアのあらゆる情報がインターネット上で保管されるようになり、行政、サービス、医療などのあらゆることがインターネットでできる環境が整っていきました。

国を立ち上げている段階に、インターネットが既に普及していたので、最初からインターネットを使うことで国家を作り込んでいったという感じですね。

今では、IT環境が日常生活にとても深く根強いており、オンライン以外の方法を見つけることの方が大変かもしれません。

まとめ

エストニアは、度重なる占領を受け、じっと耐える経験をしながら、自国を忘れることなく、力強く建てられた国なのです。

国の小ささや状況をものともせずに国家を立ち上げることができるのは、物質ではなく「気持ち」であると、エストニアから学ぶことができますね。

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